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台湾の歴史と沖縄の歴史。他国に占領された歴史を持つ2つの島。

2022年7月19日

知っていそうで意外と知らない台湾と沖縄の歴史

日本統治時代に建てられた台南市の林百貨店

日本統治時代に建てられた台南市の林百貨店

かつては日本であった台湾、かつては日本ではなかった沖縄。距離的にも近い台湾と沖縄の歴史を知っていますか?

特に若い人は「え?台湾って日本だったの?」「沖縄は日本ではなかったの?」という人もいるかもしれません。

台湾も沖縄も実はかなり複雑な歴史を持っています。ここではその複雑な歴史を出来るだけわかりやすく振り返り、また台湾と沖縄の関係や共通点にも言及していきたいと思います。

ポイント

台湾の歴史と沖縄の歴史をどこよりもわかりやすく解説します。あなたは全て知っていますか?知っているようでよく知らないあなたのための記事です。

台湾の歴史

台中神社社殿跡地にある孔子像

日本統治時代に創建された台中神社の社殿跡地にある孔子像

有史以前の台湾の原住民はいつから存在していたのかは正確にはわかっていません。。

中国大陸からの流入者もいたと思われますが、人種的にはマレー系と言われています。

また言語的にはアウストロネシア語系またはマライ・ポリネシア語系であることもわかっているので東南アジアや南方諸島からの流入者が多かったものと思われます。

現在でも台湾には原住民は存在しており、アミ族、タイヤル族など16の種族が主に山岳地帯や東部に居住しています。またそれぞれが違った言語や習慣を持っています。

台湾が他国に認識された記録は中国の隋書(656年完成)に流求(琉球)と表記されるまで世界では知られていませんでした。

「え?琉球?沖縄じゃないの?」と思う人がいて当然ですが、当時の中国側は沖縄も台湾も含めて琉球と呼んだようです。

これが明の時代(1368-1644年)になるとこう呼ばれました。

  • 台湾=小琉球
  • 沖縄=大琉球

結局、中国側から見ると同じ括りだったわけですが、明らかに台湾の方が大きい島なのに台湾を小琉球と呼んだようです。

これについては諸説あるようですが、そもそも島の大きさを正確に把握できていなかった説、沖縄とは当時朝貢関係にあり、交易も盛んだったことから沖縄の方が重要だった説などがあります。

余談ですが、小琉球という台湾の名称は今でも残っています。台湾南部にある屏東県にある離島で小琉球という場所があります。

私は行ったことはありませんが、台湾で唯一珊瑚礁でできた島で海は沖縄のような感じらしいです。

小琉球

世界から認知され占領された時代

16世紀頃、ヨーロッパ各国は自国の領土を増やすことに専心しており、船の建造技術も上がってきたことからアジアにもその船がやってきました。

1544年、ヨーロッパで最初に台湾を発見したのはポルトガル船でした。この時ポルトガルの船員が緑に覆われた綺麗な島である台湾のことをILHA FORMOSAと呼んだそうです。

ここから台湾の別称フォルモサ(中国語で美麗島)という言葉が定着します。美麗島という言葉は現在の高雄市に美麗島という駅名で残っています。

またこの頃は倭寇の活動が活発で、日本人も多く台湾に住み着いたと言われます。ヨーロッパ各国からも認知されるようになり、1624年以降はオランダが南部地域、1626年からはスペインが北部地域を占領しました。

1642年にはオランダがスペインを追い出し、事実上台湾を占領しました。今でも台南などにはオランダ時代に建造された建物が残っています。

台湾はオランダ領だったのです。

2024年でオランダが台南を占領してから丁度400年となります。

鄭成功がオランダを追放し台湾開発の始祖となる

台南市赤崁楼

台南市赤崁楼(オランダ統治時代はプロビンティア城)

その頃中国大陸では混乱状態が続いていました。明が弱体化し、一介の農民であった李自成の乱により北京が制圧されたものの、これがすぐに清に滅ぼされ、清朝による大陸支配が始まりました。

しかし清朝に反対する勢力もあり、その一人の指導者であった鄭成功は台湾に逃げ延び、台湾に居座っていたオランダを1662年に駆逐し、台湾を拠点に明の復活を成し遂げようとしました。

メモ

鄭成功は父親が福建省出身、母親は肥前国(長崎県)出身なので実は半分日本人の血が流れています。父親の鄭芝龍は平戸藩主の籠を受けて長崎に住んでいました。母親は田川マツという人物。鄭成功は長崎で7年ほどを過ごし、故郷の福建省に戻ったとされています。

以降鄭氏一族の政権は3代に渡り続きましたが、1683年に清に滅ぼされてしまいました。清としては台湾を占領するためではなく、あくまで反清勢力を駆逐するために鄭氏を滅ぼしたためと言われています。

しかし事実上清が台湾を領有することになり、台湾は福建省台湾府と呼ばれ、台南県、高雄県、嘉義県が設置されました。

ただ領有はしていたものの完全に統治する意欲はなく、台湾は「化外の地」とされ、清帝国の支配外の場所とされてきました。

とは言ってもこの時期には台湾と海を挟んだ福建省や広東省の人たちが台湾に多く移住してきます。現在でも台湾で話されている台湾語のルーツはこの人たちの方言を基礎としています。

1871年には非常に悲しい事件が起きました。宮古島島民遭難事件です。宮古島の船が遭難し、台湾南部に漂着したものの、現地の先住民族であるパイワン族に54人が殺害された事件です。

これに激怒した日本政府は清に抗議するものの、清は台湾は「化外の地」なので責任はないとする立場を取ったため西郷従道(隆盛の弟)率いる3000人以上を台湾に出兵させました。これは台湾出兵牡丹社事件とも呼ばれます。

メモ

今でも屏東県南部に牡丹社事件記念公園が残っています。牡丹社とは事件に関わったパイワン族の村の名前です。

しかし日本はこれを機に台湾を領有しようとしたわけではなく、あくまで討伐を目的としていたため目的地域を制圧した後、マラリアなどで多くの人が倒れたという記録があるそうです。

そして台湾は日本領に

八田與一

丁度この頃、清と日本は朝鮮半島の権益を巡り日清戦争が勃発(1894-1895年)。日本が勝利し日清講和条約を締結。これにより1895年から第二次世界大戦の終戦である1945年まで台湾は日本が統治することになりました。

日本の統治により台湾は開発が進み、ダムや河川の整備から義務教育の実施、農業の振興、伝染病の撲滅などを次々に進めていきました。

これらが台湾発展の基礎を築いたと感じる多くの台湾人は今でも日本のことを悪くは思っていません。またこの頃の台湾には上記のような事業を進めるため日本から、そして沖縄からも大量の人々が渡りました。

有名な例を出すと八田與一によるダムや用水路の建設です。映画「KANO-1931海の向こうの甲子園」にも出てきたので知っている人もいると思います。この功績により八田與一は現地に銅像が建てられ、今でも命日には慰霊祭が行われています。

台湾で八田與一の名前を知らない人はいないくらい有名ですが、日本ではあまり知られていないのが残念です。

一方で抗日運動もあり、大陸から移住してきた台湾人や原住民から、その習慣や文化の違いに起因する暴動も発生しました。

霧社事件は原住民の反発から起こった悲劇的な事件で、日本人130人以上が殺害されてしまいました。

こういった抗日派も台湾人、原住民に多数いたものの、今でも台湾には日本統治時代の遺物が多数残され、史跡とされ丁寧に保存されています。

また日本統治時代には逆に台湾から沖縄へ来る人もおり、中でも石垣島へは炭鉱やパイナップルの栽培で多くの台湾人が移住してきました。現在の石垣島のパイナップル産業の基礎は台湾人が築いたとも言われています。

海の彼方」という映画があります。日本統治時代に台湾から沖縄の石垣島へ移住してきた話を元にしたものです。興味のある方はご覧ください。

中華民国時代

台北市二二八和平公園和平鐘

台北市二二八和平公園和平鐘

第二次世界大戦で敗戦した日本は台湾の領有権を放棄したため、中国国民党の蒋介石が台湾入りし、中華民国時代が始まりました

蒋介石は鉄道を敷設するなど台湾の開発を進める一方で戒厳令を発令し、知識人や共産党員の弾圧を行いました。

当時はこれ以前から台湾にいた本省人と彼ら外省人とのトラブルも多く、1947年には二・二八事件も勃発しましたが、蒋介石とその息子である蒋経国は民主化を進めながら恐怖政治を行いました。

1987年に蒋経国が戒厳令を解除し、1996年には台湾で初めて総統民選が実施され国民党の李登輝が選出、台湾の民主化が加速しました。

メモ

李登輝は台湾民主化の父として有名ですが、超親日家としても有名。台湾華語や台湾語、英語よりも日本語を流暢に話し、台湾で何か質問されると頭の中では日本語に翻訳してからまた台湾華語で話すという。京都大学に進学していたことでも知られる。

李登輝後の台湾は民進党、国民党、また民進党というふうに政権交代が多かったが、2016年から2期民進党の蔡英文、2024年5月からは同じく民進党の頼清徳が総統になっています。

民進党は北京政府による一国二制度を受け入れず、中台統一を一切拒否する姿勢を見せ、両国間は緊張状態が続いています。

ただし独立を模索しているのではなく、現状で台湾は既に独立しているとの認識を1999年に発表している。

一方の国民党は両岸統一(中国と台湾の統一)を長期目標としている。

台湾の歴史まとめ

台湾の歴史は簡単に表すと下記のようになっています。

ポイント

先住民族時代→オランダ領時代→鄭成功時代→清領時代→日本領時代→中華民国時代

他国に占領される紆余曲折の歴史を経て現代の民主主義国家が形成されました。

 

 

沖縄の歴史

沖縄県護国神社鳥居

第二次世界大戦の戦死者が多く眠る沖縄県護国神社の鳥居

沖縄にいつから人が住み始めたのか、ルーツもはっきりとはわかっていません。かつては大陸と地続きであったとされ、大陸から人が移動してきた可能性が高いでのではないか説や、台湾や日本からも人が渡ったとも言われています。

1967年に18000年前とされる人骨が見つかり、また別の場所から世界最古とも言われる23000年前の釣り針も発見されたことから、かなり昔から人が住み着いていたことがわかります。

日本本土で言う縄文時代〜平安時代には主に漁業や狩猟、採集で生活していたようで、貝製品を日本本土との交易に用い、また中国との交易も徐々に盛んになったと言われます。

日本書紀や続日本紀に琉球と想定される記述はあるものの、明確に書物に初めて現れるのは台湾と同じで隋書に琉求と表記されるのが最初です。

本土でいう平安時代後期〜南北朝時代になると中国や東南アジアとの交易が盛んになり、この中で力を持った者が按司と呼ばれ、城(グスク)を築城し周辺を掌握するようになりました。

メモ

按司(あじ)とは豪族のことです。按司が各地に築城したこの時代をグスク時代と言います。この頃日本から平仮名が伝わり、その言葉は明や清の影響を受けながら独自に進化していきます。

14世紀頃になると按司は収束され、北山・中山・南山と沖縄本島を3分割する時代に入りました。この時代を三山時代と呼びます。

琉球王国の誕生

首里城

1429年、尚巴志が三山を統一し、首里城を王都とする琉球王国という独立国家が誕生しました。例えれば、戦国時代を経て天下統一をした徳川家康が江戸幕府を開いたようなものです。

琉球王国は1879年まで独立した国家であり、450年もの間沖縄本島や周辺の島々を掌握していました。

グスク時代に按司は自らの力を誇示し、正当性を主張するためもあってか明朝に朝貢しており、琉球王国も明朝〜清朝に朝貢し続けました

しかしこれは大きな負担となり、そのため周辺の島を制圧し領土を広げ、年貢を貢がせ、工面していたとされます。一方で中国との交易は盛んだったようです。

この時代、日本は鎖国政策を取っており、また明も清も海禁政策を取っており、琉球王国は中継貿易の拠点として重要な役割があったとされます。

王国として長い間安定していたそんな琉球ですが、暗雲が立ち込める事件がありました。

1602年に仙台藩領内に琉球船が漂着したことです。徳川家康は漂着した人々を琉球へ送り届けましたが、その見返りとして日明貿易の仲介などを薩摩藩を通じて要求しました。

何度もあった要求の通達を琉球王国は無視し続け、家康の激怒を買うことになり1609年に薩摩藩の侵攻を受けることになってしまいました。

結果として琉球王国は薩摩藩の管理下に置かれることになったものの清朝への朝貢は続けるという両属関係になりました。

琉球藩そして沖縄県の誕生

1871年には廃藩置県があり、薩摩藩は鹿児島県となったため琉球王国は鹿児島県付庸国という特殊な立場となりました。そして翌年には琉球藩を設置し、日本の領土とし、清への朝貢を止めるように指示しましたがこれに清が反発。

また琉球王国もこれに従わなかっため、1879年に首里城の明け渡しを命じ沖縄県を設置しました。王族は地位を失い華族となったものの、一部の王族は清に泣きつき、日本と清との間で帰属問題になってしまいました。

しかし琉球王国は完全に終焉を迎えることとなり、この一連の流れを琉球処分と言います。

メモ

「琉球」の呼称は最初に隋が使った名称で、長らく琉球王国として対外的に使われていた名称ですが、「おきなわ」という名称は779年の鑑真の伝記の中で「阿児奈波(あこなは)」という記述があることから古くから使われていたとされています。沖縄という漢字自体は沖に縄のように浮かぶ島という意味で当て字だそうです。

琉球は日本領土なのか清の領土なのか、アメリカが調停に乗り出したこともありましたが決着せず、膠着状態が続いたものの1895年に日清戦争に日本が勝利したことで沖縄、そして台湾も含めて世界的には正式に日本領土となりました

与那国島と台湾

与那国島

日本の最西端である与那国島は台湾と110kmしか離れていません。有史以前から交流があったのではないかという説もあります。

しかし、与那国島と台湾本島の間には黒潮が流れており、船舶の技術が乏しい戦前の木造船ではかなり難易度が高かったものとされています。

しかし日本統治時代の台湾は、与那国島との交流が盛んでした。

与那国島としては沖縄本島に行くより台湾の方が圧倒的に近く、またこの時代には船舶技術も確立されており、往来の支障にはなりませんでした。

病院、仕事、学校など与那国島はある意味、台湾に依存しながら生活していた感があります。

アメリカに統治される

1939年に第二次世界大戦が勃発しました。1944年には沖縄本土はアメリカ軍の空襲を受け那覇市の90%が壊滅してしまいました。その後も戦火は止まず、沖縄本島を中心に米英軍との熾烈な地上戦が繰り返され、日本側は19万人近い死者を出してしまいました。

米英軍は当初北部から攻め入り、人々を南部に押しやり、最後に南部を陥落させました。今でも南部にはひめゆりの塔など戦争の爪痕が多く残っています。

結局翌年には終戦し、沖縄はアメリカに占領され、アメリカの領土となりました。アメリカ軍はこの頃に沖縄にたくさんの基地や施設を建設しました。これは今も基地問題として騒がれています。

またこのアメリカ統治時代には色々な理由で沖縄から台湾へ渡った人も多かったという研究もあります(神戸学院大学)。

本土復帰

アメリカに統治はされたものの、アメリカ人による事故や事件が相次ぎ、日本復帰の機運が高まり、1965年には佐藤栄作首相が本土復帰を目指すことを表明しました。

1969年にはアメリカのニクソン大統領の了解を得て、1972年に正式に日本復帰を果たすことになります。

沖縄県民が希望した基地の撤収はできなかったものの、3億2000万ドルと引き換えに沖縄を取り戻した佐藤栄作首相は非核三原則の提唱などの功績とともに、その後1974年にノーベル平和賞を受賞しました。

2022年で沖縄は本土復帰50年。つまり私が生まれた頃は沖縄は日本地図には載っていなかったのです。そう思うと感慨深いものがあります。

沖縄の歴史まとめ

沖縄の歴史は簡単に表すと下記のようになっています。

ポイント

グスク・三山時代→琉球王国時代→日本領時代→アメリカ領時代→日本(現代)

450年続いた琉球王国の時代から激動の時代を乗り越えて今があります。

沖縄GO!GO!3パス

 

沖縄と台湾の関係性まとめ

那覇市にあるガジュマルの木

台湾にも沖縄にも多いガジュマルの木(那覇市内)

上述の台湾の歴史、そして沖縄の歴史を読んでみればわかるように距離的にも近いこの2つの島は歴史上それなりに関係があったようです。

台湾の人たちは日本が大好きな人が多いですが、中でも沖縄県には親近感を覚える人が多いそうです。それは外国に統治された歴史や、距離的に近いこと、気候も似ているため食生活なども近いことなどが理由と思われます。

台湾から沖縄に来た人は「沖縄は台湾に似ている」と感じるそうですし、沖縄から台湾に行った人は「台湾は沖縄に似ている」と感じるそうです。

ガジュマルなどの南国の木が多かったり、豚肉料理が多かったり、同じような野菜や果物を食べたり、お墓が大きかったり、旧暦を大切にする習慣があったりと共通点は多いです。

台湾、琉球王国、日本、中国大陸とそれぞれが密接に関係しながら歴史を作ってきたとも言えますね。

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  • この記事を書いた人

NOBU

東京生まれ、東京育ちの50代男。2022年6月より沖縄在住。文筆業・ネットショップ運営の個人事業主。
曽祖父、祖父が日本統治時代に台北に住んでいたこともあり、実父も台北生まれ。 好きな街は鹿港と台南。住んでみたい街は台中。台湾旅行で得た情報や楽しく快適に旅行できるノウハウなど台湾情報を発信中。
台湾華語検定(TOCFL) A1級 / 台湾検定(国際知識検定) 受験予定

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