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異国の地台湾に残る日本統治時代に造られた写し霊場の石仏
(慶修院の石仏 Photo:Flickr astromango芒果)
日清戦争後の1895年から太平洋戦争後の1945年までの50年間、台湾は日本が統治していました。
そして当時の日本人たちは、日本の四国八十八ヶ所霊場や西国三十三観音霊場の写し霊場を造っていきました。
その特徴は日本の霊場の分身という形で、札所のご本尊が刻まれた石仏を各所に安置し巡拝するというものでした。
日本における四国八十八ヶ所霊場と西国三十三観音霊場
四国八十八ヶ所霊場は四国4県にまたがる弘法大師ゆかりの88の札所を巡拝する霊場です。
一方の西国三十三観音霊場は和歌山県から滋賀県まで2府5県にまたがる観音霊場で、共に1,000年以上の古い歴史がありますが、庶民に認知されてきたのは江戸時代以降です。
しかしどちらの霊場も巡拝するには1,000キロ以上の距離があり、また現地に行くだけでも困難であったことから、各地に写し霊場が造られました。
写し霊場は現地に行かなくても地元で、しかもその多くは小規模なので短い距離で巡拝でき、尚且つ同じご利益が得られると人気でした。
そんな写し霊場が日本統治時代の台湾でもいくつか造られました。
これらの写し霊場は日本の霊場の札所の寺院名やご本尊を石仏に刻み、その石仏を札所として寺院や道路脇などに安置して巡拝していました。
なお、台湾全土に札所を置いた台湾三十三観音霊場は近年(2001年)に創設された霊場です。このページでは言及しません。このページは日本統治時代の霊場のお話です。
台湾に残る霊場の痕跡
日本統治時代の台湾には台北と花蓮に四国霊場、台北・宜蘭・基隆・新竹に西国霊場の写し霊場が造られました。
そしてその痕跡は各地に残っているものの、残された石仏の扱い方はそれぞれで、個人や寺廟で丁寧に祀っているものもあれば、雨ざらしの場所で風化が心配されるものもあります。
残された石仏は今となっては日本国外に残された貴重な宗教遺産であり、文化財であり、歴史的建造物であり、また観光資源にもなり得るものです。
台北新四国八十八ヶ所霊場
台北新四国八十八ヶ所霊場は台湾にできた霊場の中で最も早くできた霊場と言われており、1925年に創立されました。
88の石仏の内、現在でも半数近くの現存が確認されています。
1番札所は弘法寺(現在の台北天后宮)、88番札所は北投鐡真院(現在の北投普済寺)で、残された石仏も現在は同じ場所にあります。
コースは台北中心部から士林、芝山巌、陽明山、竹子湖、そして北投で結願するもので、2〜4日程度で巡拝するものでした。
石仏は宗教施設や道路脇に安置され、日本の遍路と同じように菅笠を被り、白衣を着て、金剛杖を持って歩いたそうです。
このブログでも何度かに分けて特集していますので、詳細はまずは第1回目の記事をご参照ください。
→ 台北新四国八十八ヶ所霊場1番札所台北天后宮の弘法大師像と石仏
吉野村真言宗布教所の写し四国霊場
現在の花蓮県にあった吉野村は政府の移民事業によってできた村で、村民の多くは徳島県、香川県、愛媛県の人たちでした。
特に徳島出身者が多く、そのため村名は吉野川から取ったと言われています。吉野村となったのは1911年のことでした。
日本統治時代の台湾は各地に日本の宗教の布教所を設けていましたが、吉野村にも政府の意向もあり浄土真宗本願寺派の布教所がありました。
しかし四国出身者の多い吉野村では弘法大師、真言宗の信者が多く、村民は高野山に布教師の派遣を依頼し、1917年には吉野村真言宗布教所を開設しました。ご本尊は弘法大師です。
写し霊場の創立時期は不明ですが、石仏には寄進者の名が刻まれているものがあり、1928年に奉納された百度石と同じ名前の石仏が残っていることから、この頃だと推察されています。
当時の石仏は境内に散在する形でした。
戦後には村は吉安郷という名前になり、布教所も慶修院と改められましたが、石仏は散逸してしまいました。
現在は残された17の石仏以外は新しく用意され、1ヶ所に集約され、境内の建物なども大改修を行い2003年に公開されました。霊場が再興された形です。
また、国家第3級古跡に指定されており、花蓮の有名観光スポットとして多くの人が訪れています。
宜蘭西国三十三観音霊場
宜蘭の西国霊場も明確な創立時期はわかっていませんが、番外を含め残された11体の石仏の中で1体だけ日付が記された石仏があり、そこには昭和3年(1928年)の文字が読み取れます。この頃に創立されたと考えるのが妥当でしょう。
日本人が少なく、人口の5%ほどしかいなかったと言われる基隆ですが、特定の宗派の宗教に頼らず、当時の日本人が市街地だけでなく、宜蘭市全域に渡る道路脇や山林、水源地などに石仏を安置したそうです。
13番の石仏は水源地にあったため、勝手に開発などすることができず、当時のまま台座も石仏も残されていますが、他の石仏は彩色され、加工され、改変されているものがほとんどのようです。
1番、6番、11番の石仏は道教の廟に祀られています。また2番、3番の石仏は寺院のご本尊として祀らています。
また14番の石仏は、この石仏を祀るために寺院が建立され、その寺院の名称も石仏(つまり日本の西国三十三観音霊場)と同じ三井寺。これは凄いですね。
基隆西国三十三観音霊場
基隆の霊場は残された石仏に刻まれた日付から1928年〜1929年の創立と推察されています。基隆市中心部から月眉山周辺に札所が設けられていたようで、その範囲は基隆市全域に及びます。
主に道路脇に安置されていた石仏は、総距離約52キロと言われ、結願までは数日かかる道のりでした。
戦後は他の霊場同様に石仏は散逸しましたが、現存している石仏のほとんどは近くの寺院に移設されており、中には道教の廟で祀られている石仏もあります。
そして中にはご本尊として祀られている石仏もあります。例えば29番松尾寺の馬頭観音は静慈寺の正殿に安置されています。
台湾には馬頭観音信仰はなかったものの、この石仏をきっかけに広まったそうです。
なお、1番と2番は現在新北市に安置されていますが、これは戦後に移設されたためです。
33体あった石仏の内、29体の現存が確認されています。中には彩色されている石仏も確認されています。
台北西国三十三観音霊場
1926年に創立されました。現在の新北市五股區にある観音山を中心に位置することから五股観音山西国三十三観音霊場とも呼ばれます。
鎌野芳松、大神久吉が中心になり創立されたと言われますが、この二人は台北新四国八十八ヶ所霊場の発起人でもありました。
札所の多くは場所的に山の中であったこともあり、開発されずに現在でも20体ほどの石仏が残さており、台座だけ残されているものを含めると更に多くの痕跡があります。
台座ごと移設するのは大変なので、動かしやすい石仏だけを移設したり、あるいは盗んだ人もいたと思われます。
現在は西雲寺、凌雲禪寺、開山院の3つの寺院とその周辺にかなりの石仏が集約されています。
また、33ヶ所に当てはまらない番外的な石仏もいくつか見つかっており、中でも花山院法皇の石仏は特筆すべき石仏です。
718年に創立されたとも伝わる西国三十三観音霊場ですが、その後衰退していたところを再興したとも言われるのが第65代の天皇であった花山院で、日本の西国三十三観音霊場番外霊場となっている花山院菩提寺はゆかりの寺院でもあります。
新竹西国三十三観音霊場
台湾の多くの写し霊場は市街地の道路脇や山中、寺院などに石仏を安置しましたが、新竹の霊場は少し事情が違います。
十八尖山と言われた丘はかつてはお墓として使われていましたが、1917年に昭和天皇御即位を記念してお墓は撤去され、その丘は公園として整備されました。
台湾鉄道新竹駅から東南に2キロ弱の場所にある公園です。
そして1929年10月、この公園内に散在する形で石仏が安置され、写し霊場が創立。しかし戦中、戦後は軍事拠点となっていたため一般人は立ち入ることができず、1962年になり十八尖山公園として一般解放されました。
山口県徳山市から運ばれてきたという33体の石仏は、現在でも24体の石仏が残されていますが、その多くは彩色されたり、文字を消されているのが特徴です。
元々丘陵地だったこともあり、公園になってからも多くの石仏はハイキングコース沿いに安置され、地元の人々に親しまれているようです。
また、残された石仏には新たに番号が振られ、石仏の横に専用のスタンプを置いて、スタンプラリーができるようにもなっており、観光資源として活用されています。
新竹市では失った9体の石仏も復元し、三十三観音歩道を建設する計画もあるようです。
高雄西国三十三観音霊場?
台湾南部には写し霊場はないとされてきましたが、高雄市で2010年に築70年という古い日本家屋を取り壊した場所から「西国第一番」と書かれた石仏が発見されました。
この石仏が発見された場所は日本統治時代、高野山真言宗高雄支部(高雄真言宗布教所)であったと推察され、また周辺一体に天台宗、日蓮宗などの布教所や寺院、神社、教会がある宗教街区的な場所でありました。
また、この石仏は他の霊場の石仏とは違う点が多々あります。まず形。他の霊場では舟形ですが、長方形です。そして台座からの高さも236センチと非常に高いのです。このような石仏は日本本土でも珍しいようです。
更に人物名と戒名が刻まれていました。一人は下村卯之松、もう一人は内藤サト。そしてこの石仏を建立した本田良太郎という名前が確認できます。苗字が違うため夫婦ではなさそうです。
下村には大正14年(1926年)、内藤には大正15年(1927年)という日付も刻まれています。
下村と内藤についてはどのような人物なのかは不明ですが、本田良太郎は高雄に住んでいた日本の実業家だそうです。
こういった事実からこの石仏はまずは供養塔としての機能があったと推察されています。
しかし「西国第一番」そして如意輪観音の意味は不明で、他にも高雄市内で同様の石仏が発見されれば霊場の存在が確認できるものの、現在のところ何も見つかっておらず、謎の石仏と化しています。
実は高雄にも霊場があったものの、既に石仏はこれだけしか残っていないのか。1番だけ安置して、2番目以降を造る時に何らかの事情で頓挫したのか。単に供養塔としての意味しかないのか。あるいは・・・?
台湾に残る写し霊場の石仏まとめ
慶修院の写し四国霊場と、新竹西国三十三観音霊場は観光資源として活用されている好例だと思います。
しかし残された石仏を現在管理している寺廟では、祀ってはいるものの、その石仏がなぜここにあるのか既に知らないという場合も多くあるそうで、歴史の伝承がうまくいっていない様子です。
運よく残っている石仏なのですから、できればその歴史を把握し、それを宣伝材料にすれば寺廟にとっても観光資源となるはずです。
そのためには政府や台湾観光局、研究者の手助けが必要です。
できることならば、石仏の歴史を知った上で、文化財として大切に保存し、観光にも利用してもらえたら、日本人としては大変嬉しいです。
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